2018
04/11
10:51
1300年の古都・奈良は何故に京都に比べて、観光地として見劣りするのか?
「青丹よし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり」と、小野老(おののおゆ)が、赴任先の大宰府(現在の福岡県太宰府市)から奈良の都を想って詠んだ歌。都の様子を最大級の褒め言葉で詠んでいます。京都と並ぶ、日本最古の古都でありながら、観光地として比べてみれば、雲泥たる差がついている。奈良観光で一番に思い浮かぶのは、なんと言っても「大仏」と奈良公園の「鹿」であり、その他が直ぐに出てこない様な気がする。数年前からみると、インバウンドの外国人が増えているのは感じるが、京都市の年間観光入込客数が5522万人に対して、奈良市は1554万人で横ばいになっている。外国人観光客の宿泊日数をみると、奈良市内で1泊以上宿泊する外国人観光客は約3割にとどまり、多くが日帰りで訪れていることがわかる。一方、京都市では約7割、大阪市では約8割の外国人観光客が宿泊しており、5泊以上滞在する観光客も約1割いる。 昔から言われているのは、奈良の大仏商法でその意味は、努力をせずとも人が来ることで、座ったまま待つようになった。その結果、奈良の夜は暗くなり、人びとの姿が消えた。海外のガイドブックには、「奈良は3時間で充分」とまで、書かれるようになった。来てはくれるものの、昼間だけで充分な場所だと言われているのである。京都は市長が自ら和服を着て、観光行政に力を入れている事をアピールしているが、奈良にはそう言った観光行政が見られない。宿泊施設数も少なく、官民一体となった観光客の誘致対策を真剣に取り組まないと、益々京都との差が開く一方である様に感じます。先日も所要で奈良に行きましたが、中国人を中心としたインバウンド客が非常に増えているにも関わらず、官民一体の誘致対策が感じられず残念な気がしました。

男は笑いに生き、笑いに死んだ! 男の名は〝米沢彦八″――上方落語の始祖にして、日本初のお笑い芸人。笑いを商売に変えるために生きた、ぼんくら男の一代記!!何故人を笑わすのか? 人は何故笑うのか?笑いを商売に変えるため、男は血を吐く思いで立ち向かった。そして、栄光と挫折を味わった男の芸は文化となった。時は江戸時代中期。大坂の生国魂神社の境内には、芝居小屋や見世物小屋が軒を連ね、多種多様な芸能が行われていた。笑話の道を志した米沢彦八は、役者の身振りや声色を真似る「仕方物真似」、滑稽話の「軽口噺」などが評判を呼び、天下一の笑話の名人と呼ばれ、笑いを大衆のものとした。彦八は何故、笑いを志し、極めようとしたのか? そこには幼き頃から心に秘めた、ある少女への思いがあった――。デビュー作『宇喜多の捨て嫁』でいきなり直木賞候補となった著者が、ぼんくら男の一代記に挑んだ!!
(幻冬舎より)
「彦八まつり」を、上方落語協会が年に一度、9月の第1土曜日と日曜日に、大阪市天王寺区の生國魂神社で開催する。上方落語の祖と言われている「米沢彦八」を称える事もあり、1990年の生国魂神社での「彦八の碑」建立を機に、1991年より開催されている。江戸弁で語られる「江戸落語」と上方弁で語られる「上方落語」は、ともに江戸中期より始まった。京都の初代露の五郎兵衛や大阪の初代米沢彦八が道端に舞台を設け、自作の噺を披露して銭を稼いだ「辻咄」(つじばなし)や「軽口」(かるくち)が落語の起源といわれている。その彦八をテーマして書かれた作品で、面白く読みました。

真田の嫡子でありながら家康の養女(本多忠勝の娘)を妻とし、眉目秀麗・六尺一寸の長身と十代からの卓抜な戦略により「信濃の獅子」「天下を飾る者」と徳川の歴代家中で尊敬を集めた好漢の異聞。
(「BOOK」データベースより)
岳/真也(おか しんや)
1947年、東京生まれ。慶応義塾大学経済学部卒、同大学院社会学研究科修了。66年、学生作家としてデビュー。現在、法政大学講師。日本文藝家協会理事、歴史時代作家クラブ代表幹事。初めて読んだ作家です。真田信幸は、弟の真田幸村の方が有名になってしまったが、関ヶ原で徳川方につき幕末まで信州松代藩を残した、名君でもあった。

その日、深川の芭蕉庵は大騒ぎだった。芭蕉布(琉球の布)に包まれた物騒な投げ文が見つかり、芭蕉の掛け軸が蛇の這った跡で汚されていたのだ。文の内容は、恋しい相手を奪われた恨みの歌。そこに絵師の暁雲(後の英一蝶)が訪れ、庭に琉球の装束を纏った謎の女がいたと告げる。事件は女による脅迫か、ただの悪戯なのか。暁雲は芭蕉の一番弟子・其角と共に謎を追うが―。吉原で太鼓持ちを務める豪放磊落な暁雲と、生真面目だが不思議な話が大好物の其角。二人が出逢い、唯一無二の友になるまでを描く、『酔ひもせず其角と一蝶』の前日譚!
(「BOOK」データベースより)

「青丹よし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり」と、小野老(おののおゆ)が、赴任先の大宰府(現在の福岡県太宰府市)から奈良の都を想って詠んだ歌。都の様子を最大級の褒め言葉で詠んでいます。京都と並ぶ、日本最古の古都でありながら、観光地として比べてみれば、雲泥たる差がついている。奈良観光で一番に思い浮かぶのは、なんと言っても「大仏」と奈良公園の「鹿」であり、その他が直ぐに出てこない様な気がする。数年前からみると、インバウンドの外国人が増えているのは感じるが、京都市の年間観光入込客数が5522万人に対して、奈良市は1554万人で横ばいになっている。外国人観光客の宿泊日数をみると、奈良市内で1泊以上宿泊する外国人観光客は約3割にとどまり、多くが日帰りで訪れていることがわかる。一方、京都市では約7割、大阪市では約8割の外国人観光客が宿泊しており、5泊以上滞在する観光客も約1割いる。 昔から言われているのは、奈良の大仏商法でその意味は、努力をせずとも人が来ることで、座ったまま待つようになった。その結果、奈良の夜は暗くなり、人びとの姿が消えた。海外のガイドブックには、「奈良は3時間で充分」とまで、書かれるようになった。来てはくれるものの、昼間だけで充分な場所だと言われているのである。京都は市長が自ら和服を着て、観光行政に力を入れている事をアピールしているが、奈良にはそう言った観光行政が見られない。宿泊施設数も少なく、官民一体となった観光客の誘致対策を真剣に取り組まないと、益々京都との差が開く一方である様に感じます。先日も所要で奈良に行きましたが、中国人を中心としたインバウンド客が非常に増えているにも関わらず、官民一体の誘致対策が感じられず残念な気がしました。

男は笑いに生き、笑いに死んだ! 男の名は〝米沢彦八″――上方落語の始祖にして、日本初のお笑い芸人。笑いを商売に変えるために生きた、ぼんくら男の一代記!!何故人を笑わすのか? 人は何故笑うのか?笑いを商売に変えるため、男は血を吐く思いで立ち向かった。そして、栄光と挫折を味わった男の芸は文化となった。時は江戸時代中期。大坂の生国魂神社の境内には、芝居小屋や見世物小屋が軒を連ね、多種多様な芸能が行われていた。笑話の道を志した米沢彦八は、役者の身振りや声色を真似る「仕方物真似」、滑稽話の「軽口噺」などが評判を呼び、天下一の笑話の名人と呼ばれ、笑いを大衆のものとした。彦八は何故、笑いを志し、極めようとしたのか? そこには幼き頃から心に秘めた、ある少女への思いがあった――。デビュー作『宇喜多の捨て嫁』でいきなり直木賞候補となった著者が、ぼんくら男の一代記に挑んだ!!
(幻冬舎より)
「彦八まつり」を、上方落語協会が年に一度、9月の第1土曜日と日曜日に、大阪市天王寺区の生國魂神社で開催する。上方落語の祖と言われている「米沢彦八」を称える事もあり、1990年の生国魂神社での「彦八の碑」建立を機に、1991年より開催されている。江戸弁で語られる「江戸落語」と上方弁で語られる「上方落語」は、ともに江戸中期より始まった。京都の初代露の五郎兵衛や大阪の初代米沢彦八が道端に舞台を設け、自作の噺を披露して銭を稼いだ「辻咄」(つじばなし)や「軽口」(かるくち)が落語の起源といわれている。その彦八をテーマして書かれた作品で、面白く読みました。

真田の嫡子でありながら家康の養女(本多忠勝の娘)を妻とし、眉目秀麗・六尺一寸の長身と十代からの卓抜な戦略により「信濃の獅子」「天下を飾る者」と徳川の歴代家中で尊敬を集めた好漢の異聞。
(「BOOK」データベースより)
岳/真也(おか しんや)
1947年、東京生まれ。慶応義塾大学経済学部卒、同大学院社会学研究科修了。66年、学生作家としてデビュー。現在、法政大学講師。日本文藝家協会理事、歴史時代作家クラブ代表幹事。初めて読んだ作家です。真田信幸は、弟の真田幸村の方が有名になってしまったが、関ヶ原で徳川方につき幕末まで信州松代藩を残した、名君でもあった。

その日、深川の芭蕉庵は大騒ぎだった。芭蕉布(琉球の布)に包まれた物騒な投げ文が見つかり、芭蕉の掛け軸が蛇の這った跡で汚されていたのだ。文の内容は、恋しい相手を奪われた恨みの歌。そこに絵師の暁雲(後の英一蝶)が訪れ、庭に琉球の装束を纏った謎の女がいたと告げる。事件は女による脅迫か、ただの悪戯なのか。暁雲は芭蕉の一番弟子・其角と共に謎を追うが―。吉原で太鼓持ちを務める豪放磊落な暁雲と、生真面目だが不思議な話が大好物の其角。二人が出逢い、唯一無二の友になるまでを描く、『酔ひもせず其角と一蝶』の前日譚!
(「BOOK」データベースより)
