2013
06/25
16:26
南紀熊野古道と温泉の旅
Category : 旅行
世界文化遺産の南紀熊野古道と、温泉巡りの旅に行ってきました。6/23(日)~24(月)
の一泊二日で、去年2月末の岡山旅行に続いて、2回目の高校の「ミニ同窓会」で計7名
でした。参加者は小生の様な、年金生活者は少なく現役の会社取締役を筆頭に、大阪
府立公衆衛生研究所に勤務する者や、中には国から叙勲を受けた者・元大阪市消防
司令長で、今年の春に瑞宝双光章を受け恩賜のタバコの代わりに、現在は「菊の御紋」
の入った三笠饅頭を貰ったらしい。カメラ屋の社長や鉄工所経営者とサラリーマンを卒業
してから、駐輪場の管理人で週3回勤務を続ける者など、皆それぞれの生活を送って
いますが、共通点は全員前期高齢者に、なっている事で少し寂しい気もします・・・。
それでも、15歳から50年間の付き合いで何の利害関係もない、気の置けない仲間達
で、1泊2日の旅行中は、抱腹絶倒の会話が飛び交い、非常に愉快な非日常を味わい
尽くして、早くも来年の旅行先の話も出て、お互いに満足し充実した旅行でした。
阪和道のSAのトイレ休憩の時の、観光案内の看板

今回の旅の目的の一つである、温泉巡り1回目の入浴した「崎の湯」
万葉の昔から「湯崎七湯」の中で唯一残っている歴史ある湯壷で、雄大な太平洋が間近
にせまる露天風呂です。湯船から海までは約10mほどなので、岩に打ち寄せる波を感じ
ながら入浴できます。


串本の「橋杭岩」
串本から大島に向かい、約850mの列を成して大小40余りの岩柱がそそり立っていま
す。その規則的な並び方が橋の杭に似ていることからこの名が付きました。海の浸食に
より岩の硬い部分だけが残り、あたかも橋の杭だけが立っているように見えるこの奇岩
には、その昔、弘法大師と天邪鬼が一晩で橋を架ける賭をして、一夜にして立てたという
伝説も伝わっています。吉野熊野国立公園地域にあり、国の名勝天然記念物に指定
されています。(串本町観光協会より)


宿泊した、南紀勝浦温泉「ホテル浦島」。ホテルには、車で直接に行けず専属の渡し船で
5分位で着く。それもまた、他ではないので、情緒があって良かった。

夕食前に2回目の入浴。ホテル浦島の名物・大洞窟温泉「忘帰洞(ぼうきどう)」。
名前の由来は、紀州の殿様が、そのここちよさに帰るのを忘れたというのが名の由来
で、8代将軍吉宗公も絶賛したという伝説がある。ほかに寝る前に3回目「滝の湯」。
朝起きぬけに4回目「忘帰洞」。昨晩と違って朝と夕で右側・左側が男湯・女湯に入れ
替わる。朝の左側の方が、湯船も洗い場スペースも大きくて気持ちが良かった。
旅行2日目の本日は、5回目の「湯の峰温泉」も予定している。温泉漬けで、何だか
ふやけそう・・・。

熊野那智大社の別宮、飛瀧神社のご神体として古くから人々の畏敬を集めてきた
那智の滝は、「一の滝」とも呼ばれ日本三大名滝の一つです。
落差133m、銚子口の幅13m、滝壺の深さは10mの落差日本一の名瀑で、熊野の山塊、
その奥方より流れ落ちる姿は圧巻で、大晦日にはライトアップも行われます。
2年前の台風12号の爪痕が、未だに残っており、ご覧の様にクレーンで修復中でした。

熊野三山の中心で、全国に3000社以上ある熊野神社の総本宮。熊野三山の中心として
中世より上皇貴神や庶民の参詣が多く、「蟻の熊野詣」ともいわれた。熊野本宮大社も、
2年前の12号による河川の洪水被害の復旧が遅れており、その当時の被害状況の
写真が掲示されていました。シンボルマークの八咫烏(やたがらす)は、日本神話で、
神武東征の際に、高皇産霊尊によって神武天皇の元に遣わされ、熊野国から大和国
への道案内をしたとされる烏である。一般的に三本足のカラスとして知られ古くより
その姿絵が伝わっている。


現代では、日本サッカー協会のシンボルマークにも用いられている。これは、東京高等
師範学校(東京教育大学を経た、現在の筑波大学)の漢文学者であり、日本サッカー
協会の創設に尽力した内野台嶺らの発案を基に、日本に初めて近代サッカーを紹介した
中村覚之助(内野台嶺の東京高等師範学校の先輩でもある)に敬意を表し、出身地で
ある那智勝浦町にある熊野那智大社の八咫烏をデザインした物であり、1931年に採用
された。

旅行の行程もほぼ消化して、雨の為か寒くなってきたので、半ズボンを長ズボンに履き
替え中の同窓会・終身事務局長をパチリ。
横で、終身幹事長が、よりパンツが見え易い様にTシャツをまくり上げています。
こんな、悪戯も楽しかった「ミニ同窓会」の締め括りに相応しいシーンでした。

の一泊二日で、去年2月末の岡山旅行に続いて、2回目の高校の「ミニ同窓会」で計7名
でした。参加者は小生の様な、年金生活者は少なく現役の会社取締役を筆頭に、大阪
府立公衆衛生研究所に勤務する者や、中には国から叙勲を受けた者・元大阪市消防
司令長で、今年の春に瑞宝双光章を受け恩賜のタバコの代わりに、現在は「菊の御紋」
の入った三笠饅頭を貰ったらしい。カメラ屋の社長や鉄工所経営者とサラリーマンを卒業
してから、駐輪場の管理人で週3回勤務を続ける者など、皆それぞれの生活を送って
いますが、共通点は全員前期高齢者に、なっている事で少し寂しい気もします・・・。
それでも、15歳から50年間の付き合いで何の利害関係もない、気の置けない仲間達
で、1泊2日の旅行中は、抱腹絶倒の会話が飛び交い、非常に愉快な非日常を味わい
尽くして、早くも来年の旅行先の話も出て、お互いに満足し充実した旅行でした。
阪和道のSAのトイレ休憩の時の、観光案内の看板

今回の旅の目的の一つである、温泉巡り1回目の入浴した「崎の湯」
万葉の昔から「湯崎七湯」の中で唯一残っている歴史ある湯壷で、雄大な太平洋が間近
にせまる露天風呂です。湯船から海までは約10mほどなので、岩に打ち寄せる波を感じ
ながら入浴できます。


串本の「橋杭岩」
串本から大島に向かい、約850mの列を成して大小40余りの岩柱がそそり立っていま
す。その規則的な並び方が橋の杭に似ていることからこの名が付きました。海の浸食に
より岩の硬い部分だけが残り、あたかも橋の杭だけが立っているように見えるこの奇岩
には、その昔、弘法大師と天邪鬼が一晩で橋を架ける賭をして、一夜にして立てたという
伝説も伝わっています。吉野熊野国立公園地域にあり、国の名勝天然記念物に指定
されています。(串本町観光協会より)


宿泊した、南紀勝浦温泉「ホテル浦島」。ホテルには、車で直接に行けず専属の渡し船で
5分位で着く。それもまた、他ではないので、情緒があって良かった。

夕食前に2回目の入浴。ホテル浦島の名物・大洞窟温泉「忘帰洞(ぼうきどう)」。
名前の由来は、紀州の殿様が、そのここちよさに帰るのを忘れたというのが名の由来
で、8代将軍吉宗公も絶賛したという伝説がある。ほかに寝る前に3回目「滝の湯」。
朝起きぬけに4回目「忘帰洞」。昨晩と違って朝と夕で右側・左側が男湯・女湯に入れ
替わる。朝の左側の方が、湯船も洗い場スペースも大きくて気持ちが良かった。
旅行2日目の本日は、5回目の「湯の峰温泉」も予定している。温泉漬けで、何だか
ふやけそう・・・。

熊野那智大社の別宮、飛瀧神社のご神体として古くから人々の畏敬を集めてきた
那智の滝は、「一の滝」とも呼ばれ日本三大名滝の一つです。
落差133m、銚子口の幅13m、滝壺の深さは10mの落差日本一の名瀑で、熊野の山塊、
その奥方より流れ落ちる姿は圧巻で、大晦日にはライトアップも行われます。
2年前の台風12号の爪痕が、未だに残っており、ご覧の様にクレーンで修復中でした。

熊野三山の中心で、全国に3000社以上ある熊野神社の総本宮。熊野三山の中心として
中世より上皇貴神や庶民の参詣が多く、「蟻の熊野詣」ともいわれた。熊野本宮大社も、
2年前の12号による河川の洪水被害の復旧が遅れており、その当時の被害状況の
写真が掲示されていました。シンボルマークの八咫烏(やたがらす)は、日本神話で、
神武東征の際に、高皇産霊尊によって神武天皇の元に遣わされ、熊野国から大和国
への道案内をしたとされる烏である。一般的に三本足のカラスとして知られ古くより
その姿絵が伝わっている。


現代では、日本サッカー協会のシンボルマークにも用いられている。これは、東京高等
師範学校(東京教育大学を経た、現在の筑波大学)の漢文学者であり、日本サッカー
協会の創設に尽力した内野台嶺らの発案を基に、日本に初めて近代サッカーを紹介した
中村覚之助(内野台嶺の東京高等師範学校の先輩でもある)に敬意を表し、出身地で
ある那智勝浦町にある熊野那智大社の八咫烏をデザインした物であり、1931年に採用
された。

旅行の行程もほぼ消化して、雨の為か寒くなってきたので、半ズボンを長ズボンに履き
替え中の同窓会・終身事務局長をパチリ。
横で、終身幹事長が、よりパンツが見え易い様にTシャツをまくり上げています。
こんな、悪戯も楽しかった「ミニ同窓会」の締め括りに相応しいシーンでした。
